道具とは?
「道具って何だろう?」
今回の作品、道具を手にすることで見えてくる身体、というのがテーマのひとつです。
道具についてあれこれ考えを巡らし、実際に木ヘラを使って日々料理してきましたが、いざその木ヘラを手にして稽古場に立ってみると。
「道具にはそもそもの役割があり動きとしては限定されてくる」ようです。
料理のきわめて単純な動作、しかも、その主となるのは木ヘラではなく具材だったりする。
作られる料理が主なのであって、木ヘラそのものに意識を向けているわけではない。
かきまぜられ、形を変えてできあがってくる料理。それに伴って立ち昇る湯気、香り、木ヘラのたてる音。
木ヘラを使って生み出されるあれこれが主なのだ、ということ。
そんなことに気づきはじめました。
*
去年の秋に民博に行きました。
世界中のありとあらゆる道具が展示されていたのですが、道具のシンプルさにあらためて感心した。
ココナッツをくり抜いたボールや、木の枝を四角に張り巡らした海洋地図。
どれも生活の近くにあるものからできている。
木ヘラも、もともとはただの木の棒で、火を使って料理しはじめた誰かが、作っているスープか何かをかきまぜなくてはならなくなって、ちょうと近くにあった枝を思わずつかんで、それでかき混ぜたんではないか?
と、妄想の域を出ませんが、道具のはじまり、というものに想いを馳せた民博での時間でした。
日本にまつわる展示が民博の最後の方にあるのですが、そこにあったのは藁でできた縄であったり、紙を折って垂らした紙垂と呼ばれるものなど。これらは今でも神社に祀られているものです。
見覚えのあるものばかり。
いざ民博でそれらを観ると、「これらはそもそもどうやって作られてきたのか?誰が、何故、何のために?」と妄想が湧いてきました。
藁や紙でできたこれらを神を祀るための道具だと考えるなら、一番初めに作った人の意図したものは。
多くが農民であったわたしたちの先祖にとって、米の存在は今よりもっと身近だったろうし、稲を刈り取り藁にする、それらを扱うことは日常だっただろう。紙という素材も木と同じように、この国では昔から身近なものだったんだろう。
そして、この道具を用いて、何をどうしたかったんだろう?
道具の先にある主なるもの。それは目に見えるものも、見えないものも、はたまたわたしたち先祖の日常ー生活と呼ばれる営みや政治にいたるまでを扱っていたのかもしれない。
紙垂が雷をモチーフにデザインされたのでは、という説もあるそうで、紙の切り方にもいく通りもの方法があるらしい。道具を通じて人々が何を見ていたのか、何を畏れていたのか。
木ヘラに立ち戻ってみると、やはりこれは一本の木だったのかも。木、木の枝、その辺に転がっていた棒のようなもの。道具にまつわるあれこれは尽きることがありません。
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